欠陥と欠点について



ある夜、湯船に浸かりながら、いつものようにもやもやと考え事をしていた。
その日ぼんやりと考えていたのは、自分の最近の失敗と、過去にしでかしてきた数々の失敗について。
色々と思い返していたら、「やっぱり、自分には欠陥があるんだろうな」という言葉が頭に浮かんできた。
ここまでは、自分のいつもの思考の流れである。
けれどその時、ふと、何か引っかかる感じがした。
「欠陥って、何か変な言い方だな......」

 

「欠陥」を辞書で調べてみると、「必要なものや本来備わっているべきものが、欠けているか足りていない状況のこと」と出てきた。
人に当てはめることもできなくはないが、「欠陥」という言葉は実際には、「欠陥住宅」や「欠陥商品」と言ったような、物に対して使われることが多いと思う。
物に当てはめるのが自然な言葉を、自分(人)に対して使ったことで、違和感を感じたのかもしれない。

 

そんなことを考えていて、思い出したのが、高校時代の友達と居酒屋で飲んでいた時のことだった。
その友達は、明るくて、温かく、情緒豊かな、昔から私にとっては太陽のような存在だった。
そんな友達が結婚したタイミングだったので、夫婦仲の話などを色々と聞いていた。
彼女は、「私には欠点や、だめなところがたくさんあって、完璧な存在ではない。だから、相手(夫)にも完璧さは求めないようにしている」と話してくれた。
私はそれを聞いて正直、驚いた。文章として書いてみると、普遍的なことのように思えるけれど、私から見た彼女は、学業も仕事も交友関係も、完璧にこなしているように見えていたからだった。
そして、私はそんな風にー「自分には欠点がたくさんあって、完璧ではない」と考えたことが、一度もなかったからだ。

 

「自分には欠陥がある、自分は欠陥人間だ」と考えるのは、すごく気持ちが楽だ。
それは、まるで機械か何かのように、システムに問題があるか、元から欠けているものであって、自分のせいでは決してないからだ。
ところが、「自分には欠点がある」と考えると、途端に何か途方もないものが、自分の身に迫ってくるのを感じてしまう。迫力がある。
自分に欠点があるなんて、自分にも非があるなんて、認めたくない。自分の存在が、否定されてしまう。無くなってしまう。
欠点というイメージは、大きな暗い空洞のようなものだ。それに自分が飲み込まれてしまう......。
友達がすんなりと受け入れていた「欠点」は、私にとっては到底受け入れられるものではなかったのだ。

 

けれど、自分の欠点は受け入れられなくても、「大切な人の欠点」を思い浮かべてみると、不思議なことに、愛おしいな〜とのほほんと思える。
おそらく自分の欠点も、他者から見ればそれくらいのものなのだろう。むしろ、愛すべき点だったりする可能性すらある。
自分には欠点があり、それはたくさんあり、そしてそれは誰にでもある。
そう思えた時、すごく久しぶりに自己受容できた気持ちになって、じんわりと涙が出てきた。

小豆島の思い出

大学の友達と岡山-小豆島への一泊旅行をしてから、もう6年になる。時が過ぎるのが早すぎる。なぜ小豆島へ行くことになったのか、はっきりとは覚えていないけれど、大学生活も終わりが近くなった初夏に、景色がいいところへ足を伸ばしたくなったのだろう。ちなみに、私は留年&休学&院進という複雑なコンボで大学生活を長引かせていたので、友達はもうすでに社会人になって数年が経っていた。私が思いついた学生気分の旅行に、快く付き合ってくれてありがたかった。

旅行一日目は、まず岡山駅に降り立ち、後楽園へ。この時初めて足を踏み入れたけれど、その広さにまず驚いた。金沢の兼六園を思い出す。広々として、手入れがきれいにされた庭園をてくてくとひたすら歩く。ちょうど5月だったので、青々とした緑が一面に広がっていて、目に眩しかった。園の端の方まで歩いて、お茶屋さんで私は抹茶とお茶菓子、友達は確かほうじ茶オレを頼んで、しばしの休憩をしてから、後楽園を後にした。

後楽園の後は、小豆島を目指すべく、岡山港へ。この時、船の待ち時間の間に駅弁を食べているのだけど、これがどこで買ったのかを思い出せない。フェリー乗り場の売店だったか、道中で買ったのか。確か、フェリー乗り場だったかもしれない。とにかく、駅弁を食べつつ船を待つなんて、最高に旅っぽさが出ていて、嬉しくなったのを思い出す。

しばらくして小豆島行きの船が来て、ドキドキしながら乗船。外のデッキに出ると、瀬戸内海が一望できた。この時、まだ空一面が曇っていて、灰色の景色の中、遠ざかっていく大きな橋と海、水しぶきを眺めながら、岡山港を後にした。小豆島まで約1時間くらいだったと思う。ずっとデッキに出て、海風を浴びつつ写真を撮ったりしていた。小豆島が近づいてくると、雲はありつつも空は晴れてきて、彩度の高い島の風景が目に飛び込んでくる。これから小豆島に降り立つんだと思うと、すごくワクワクする瞬間だった。


小豆島に着いたら、まずホテルに向かうべく、ホテルの人がバスで拾ってくれる地点まで市バスで移動。市バスでは、島の穏やかな風景が目について、安心して少し眠たくなるような気分だった。無事にその日に泊まるホテル(国民宿舎で、一泊5千円くらいのところだった)に着いて、しばらくお茶をした後、ホテル周辺を散策してみようということになった。(今思えば、若さゆえに体力があると感じる。今だったらそのままホテルで寝ているだろう。)

ホテル周辺は、何だかおもしろいことになっていた。ホテルの周りのオリーブ畑が坂道になっていて、ずっと下りていくと、その先には小さな公園や、季節的にまだ開いていない市民プールなどがひっそりと佇んでいた。またその先をずっと行くと、道の駅に繋がっていることも分かった。私達は誰もいない公園で、童心に帰ったような気分で、すべり台をひたすら滑ったり、ポーズを決めて写真を撮ったりしてはしゃぎ回った。しかし、ふと市民プールの方に足を向かわせると、賑わいを失ってくすんで見えるプールに、大きくて奇抜なカエルのモニュメントがどーんと鎮座していて、そのシュールな光景は何だか今でも夢に見そうなほどだった。

公園を後にして、港の方向に歩いていくと、大きなトンネルがあった。思わずくぐってみたくなるような雰囲気のあるトンネルだった。幸い車通りも少なく、歩道もあったので、そのトンネルを通って港の方まで歩いてみることになった。もっとも、その時はもっと行き当たりばったりに歩いているような感じだったと思う。

トンネルを出て、坂を下るように歩いていくと、すぐに左手に海が見え始めた。道路のすぐそばから砂浜になっていて、さっと降りていけるような距離感だ。堤防沿いには小舟がたくさん停泊していた。そんな風景を見ながら、港の方へ。港には、キリンを模した大きなオブジェがそびえ立った、何ともメルヘンな船が停泊していた。子ども達を乗せて、ネバーランドに陽気に旅立ってしまいそうだ。


港は暮れかかった空の色と相まって、とても素敵な場所だった。カエルと人魚を組み合わせたような像の前で写真を撮ったり、堤防の方まで歩いて海を眺めたりしていた。しかし、そろそろ晩ご飯の時間だね、とご飯屋さんを探し始めた時、私達はある不都合な事実を知ることになる。......この時間に開いているご飯屋さんが、ない!!(午後6時くらいだった)そもそも、ご飯屋さん自体がどこにもないーーー......!!


2へ続く

コンビニと常連さんと私の記憶

大学生の頃、駅ナカにあるコンビニでバイトしていた。コンビニという特性と駅という場所もあって、客層は多種多様だった。通勤客、通学客、旅行客、近所の常連さん...本当に様々な人達が利用していた。その中でも、常連と言える人達で私の心に残っている人達がいる。その人達のことを少し書きたいと思う。(お客さんのことを勝手に書くのは良くないかもしれないけど、もう10年以上前のことなので、私の記憶の一つとして読んでもらいたい。)

 

一人目は、近所に住んでいる常連のおじいちゃん。腰が曲がっていて、棚の上の方にある商品を取ることができない。そして、買うものはいつも決まっていた。レモンの缶チューハイだ。大体いつも4缶だけど、日によって2缶だったり、ロング缶だったりした。だから、その人が店先に姿を現したら、先輩がいつも同じレモンチューハイをすぐにバックヤードから取りに行っていた。先輩はベテランなので、その行動がすごく手慣れていて素早かった。私は、あ、またあの人が来たんだな、と思いながらレジを打つ。先輩とおじいちゃんが一言二言、言葉を交わす。そんな日々だった。先輩が後から教えてくれた話では、「あの人は実は地元で有名な偉い人らしい」ということだった。本当はどうかは分からないけれど、そう言われると、いつもちゃんとしたジャケットを着ているし、そんな風にも見えてくるのだった。

 

二人目は、30代後半くらいのお姉さん。いつも土曜か日曜の夕方に来て、お弁当と、お菓子や飲み物、そして歯ブラシセットを買って、駅のホームに向かっていくのだった。なぜその人が記憶に残ったかというと、私は一度街中で、そのお姉さんが小さい子どもを連れているのを見かけたことがあるからだった。だから、子育て中のお母さんが、毎週のように泊まりがけの用事に出かけていくことを、段々と不思議に思うようになったのだった。詮索してはいけないのだけど、一体どこに行っているのだろうと、あれこれ考えを巡らせてしまっていた。そして、「このお菓子、好きなんだよねー。美味しいよね?」などと時々話しかけてくれる、お姉さんの穏やかな佇まいが、私は好きだった。今でも、このお姉さんのことをたまに思い出す。その面影と、人は多面的であるという実感を、私に残してくれた人だ。

 

記憶に残る人達と書いたけれど、エピソードを書けるのはこの二人くらいかもしれない。いつも同じたばこを買いに来る商店街のお店のお姉さん、ちょっとライダー風のジャケットを着て、これまたたばこを買いに来る渋くてかっこいいお兄さん。その人達の顔もよく思い出すことができる。そんな常連さん達のことは、私の記憶の良い部分に仕舞ってある。

 

考えてみれば、親しくなったわけでもない、ただ店員と客の関係だった人々のことを、いい記憶として残しているのは不思議なことだ。けれど、人生を通して関わるわけじゃない、ただその一時期だけ、ほんの人生の側面として関わった人たちのことを、生きることに疲れた時に思い出してみるのも、悪くない。それは決して壊れることのないものだからだ。その人達の眼差しを通して、当時の私がそこにいたということを、振り返って確認することができるのかもしれない。

死ぬことと、言葉を持つこと

今も通っているのだが、以前住んでいた町でも、私は心療内科に通っていた。

心療内科では、その時の生活上での困りごとや、不安になっていることを主に話すのだが、例えば「眠れない」とか、「仕事に行けない」、「深夜に不安感が出て困る」とか、そんなことだ。そんなに大した話を毎回しているわけではない。

 

けれど、当時の私には、いつもより少し切迫した悩み事があった。それは、「死に対する恐怖心」が強くなっていることだった。

その日は心療内科の予約を入れていて、確かそれに向かうバスの中だったと思うけれど、突然「今、もしかしたら次の瞬間、死ぬかもしれない。怖い。怖い......!」というような気持ちになり、胸が張り裂けそうに苦しくなった。

なぜ、突然そんな気持ちになるのか分からない。けれどその時だけじゃなく、当時は「死」への漠然とした恐怖が、常に頭の上に漂っているような状態だった。

 

そんな状況なので、心療内科の診察の時に、普段通りの話をした後、主治医の先生に思い切って尋ねてみることにした。

「あのー。最近、死ぬことへの恐怖心がすごいんです。突然、死んでしまうかもしれない......と考えてしまうんです。どうしてなんでしょうか。以前、高校の同級生が急に亡くなったことがあるんですが、関係あるんでしょうか」

実際は、もっとしどろもどろな感じで漠然とした質問だったように思う。

けれど、主治医であるおじいちゃん先生は私の目を見て、

「死について考えるのは、人間にとって命題のようなものなんです。それについて考えを巡らせることは、とても大事なことです。そりゃあ、生きていて、そんなこと少しも考えずに生きることもできますが、それでは成長できません。死への恐怖を乗り越えるために、それに向き合うことが絶対に必要なんです」

と、とても真剣に答えてくれた。私は少し難しい話に頭をひねりつつも、先生がそう答えてくれたことがとても嬉しかった。

 

帰り際、診察室のドアを閉める時、先生の「ふー」という長いため息が聞こえてきた。私よりもずっと高齢の先生に、そんな話をしてしまってよかったのだろうか......と少し考えた。

 

もう夕焼け空になっていた帰り道、私の心は少し軽くなっていた。それから、それほど切迫した恐怖心が出てくることはなくなったように思う。

 

その4ヶ月後に父が急死して、「死ぬこと」はどこか遠くの漠然とした出来事ではなく、現実のものとなって、否応なく私の中に受け入れることとなった。今では、自分や周りの人に残された時間のことばかりを考える。生きている間に何ができるのか。何もできないのではないか......とそればかりを考える。主治医の先生も、これまでに何度も周りの人の死を経験して、「考えて、乗り越えることが必要」だと考えるに至ったのかもしれない。

 

私に起こった変化といえば、これまでより死生観に関する本を手に取る機会が多くなった。例えば、石牟礼道子伊藤比呂美の対談集「死を想う」はとてもよかった。そして、死生観について話は尽きないけれど、答えがすっとまとまって出てくることはないようにも感じた。私も、こんな風に自分に起こったことなどを書き散らしながら、死ぬことや生きることを考えていきたいと思う。いつか、自分の言葉になったらいいなと願いながら。

秋の川辺の記憶

ベランダからそばの河原を見下ろすと、川面を撫でる風と秋草を照らす光が気持ちよく、傍で虫取り網をポンポンと動かして虫取りをしている人が小さく見えて、時間が止まった世界のように思えた。しばらくするとその人も顔を上げてこちらに気がついたので、世界を壊したように思い、私はそっと姿を消した。

映像詩(2022.11.21) - YouTube