生まれてきた場所

大学の4年間でお世話になった寮を久しぶりに訪ねて、大好きだった裏庭を覗いた時、風がざーーっとふいて、木々が優しく揺れた。その時、木々たちが「おかえり」と言ってくれている気がした。

実家の車庫から家族を乗せた葬儀車が出ていく時も、とても優しい風が吹いた。亡くなった愛犬を車に乗せて火葬場にいく時も、同様だった。

人が住む場所に宿る何かは、そこで暮らしていた人との出会いと別れを分かっているんだと、直感的にそう思えた。

 

人や動物は死ぬことで、より自然に近くなるのかもしれない。土や植物や風は別れを告げているのではなく、自分たちの世界に迎え入れているのかも。そう思うと少し悲しくなる。宇宙、星、大地……国や社会より前に、私たちは計り知れない場所に生まれてきたんだなあと思う。

ラーメンズ『銀河鉄道の夜のような夜』



宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のパロディとも言える作品だが、タイトルの『銀河鉄道の夜のような夜』の「のような」が示すように、物語の中身はオリジナルの作品と結構違っている。


お祭りや、活版印刷、牛乳屋、銀河鉄道に二人が乗り合わせるところ、化石の発掘を見るところなど、『銀河鉄道の夜』の要素を抑えてはいる。けれど、彼らはお笑いをやっているから、全体的に笑える、おもしろい構成になっている。また、彼らは独自の「言葉遊び」のスタイルを、「新聞の印刷の文字の間違い」や、「しりとり」で取り入れながら、全体を構成している。

そうなのだけれど、これを見た後に、『銀河鉄道の夜』の読後感というか、自分が『銀河鉄道の夜』に抱いているイメージのようなものや、感情をこの作品は思い起こさせてくれると思う。

オリジナルの『銀河鉄道の夜』は、根底にあるテーマが「自己犠牲」にまつわることや、「本当の幸いとは何か」という問いかけが物語の中にあるのだが、この作品はそのテーマ性を重要視してはいないと思う。

ジョバンニとカンパネルラが、「銀河鉄道」という非常に曖昧な存在に乗り合わせるという、その場自体が本当のことなのか、夢か現か分からないようなあの空気や、(二人は最後、オリジナルでも離れ離れになってしまうのだが)その儚さのようなものを、この短い時間の中で「抽出」しているというか、浮かび上がらせていると思う。

では、なぜ彼らはそういう舞台の作り方ができるのか。


ラーメンズは、「爆笑だけがおもしろいわけじゃない」というテーマを元に、「お笑いと演劇の中間」という立ち位置をとって、舞台を作り上げている。

実際に、普段見るようなお笑いやコントではないし、かといって、純粋な演劇であるとも言えないと思う。
例えば、「お笑い」を見る時は、主に笑うことを目的として見ると思うし、「演劇」を見る時は、主に役者の演技や、演出、物語に注目するだろう。

けれど、ラーメンズが自分達の舞台を「お笑いと演劇の中間である」とする時に、私達は途端に、自分が今何を見ているのか、はっきりとは分からなくなるのではないか。

具体的に言うと、お笑いを見ている感覚で見ると、それが少し延長されて演劇的なものに触れることができるし、同様に演劇を見ている感覚でいると、お笑い的なものに引き戻される感覚がある。

私はその自分の鑑賞態度が揺れ動く感覚が面白いと思っている。「真面目と不真面目の中間」にいることや、「現実と非現実の間で揺れる」という舞台装置によって、『銀河鉄道の夜』が持つ不思議で曖昧な場の空気が作り出されたのではないかと考えている。それは、物語の核の部分を浮かび上がらせたといっても過言ではないと思う。


2018/5/16
ショートショート」第一回より抜粋
「ショートショート」第一回開催のお知らせ – Kuro-Lab.

船の話

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夕暮れの雨で、緑がかった灰色に烟る海の上を、幾隻もの船が行き交っていた。
大きなタンカー、中くらいの遊覧船、小さなボートが細々と動く様子は、やはり生き物のように見えた。
車や電車が生き物に見えることはあまりないが、船のことは生き物のように捉えている自分に気がついた。
地上ではなく、海上を行く船という乗り物は、確かに人が作っているのだが、少し人の世界から独立したような佇まいをしているように思う。
それは、海という、地上とは違う世界を漕いでいく者の姿をしているからなのかもしれない。
姿形の話というよりは、その存在がどういう世界と関わっているかということによって、存在の仕方・見え方が変わってくるのだと思う。

船は、水の中では生きることのできない地上の人々を乗せて、海に身を浸し、人々を別の陸地へと運ぶ。
隔たれている物を、自らの(中間的な)存在によって交差させているのだ。
その存在によって、世界の見え方は変わってくる。
たまたま、今、この瞬間、隔たれているように見えるだけなのではないか。
船という存在によって、人と海の関係性が「変化」するというよりは、「見え方」が変わるだけなのではないか。
そういう風に思うのは、自分とは全く関わりのないという事柄が、この世界には存在しないように思うからだった。
単に、今は、隔たれているように「見える」だけで。
何らかの存在があることによって、たまたま隔たれていたもの同士の重なりが見える。
それが自然だとみんな受け取る。
そういうことを不思議に思うし、優しいと感じる。
船のような存在が気になっている。

2018/6/5

無題

11月

その人の訃報のニュースが出回った日を

よく覚えている

ちっぽけなSNSの画面に連なる怒涛の

衝撃 困惑 疑心

かなしみ

 

続きを書くはずだった

空白の項

 

思考が宙に浮く時間

その人のことをよく思う

 

赤い薔薇のように美しく

(底なしの醜さを眼前にして)

 

血が滲むように痛々しく

(吹けば飛ぶような軽薄の蔓延)

 

一杯のココアのように温かく

(喉を凍らす冷たい空気)

 

たんぽぽの綿毛のようにふわりと舞って

(鎖で繋がれたか細い手足)

 

どこにでも行けるよと

 

9月

少しだけ伸びをして

地面を踏んで

風に揺れる葉のように

よろけながら

たまに涙を流しながら

私はまた歩き始める