ラーメンズ『銀河鉄道の夜のような夜』



宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のパロディとも言える作品だが、タイトルの『銀河鉄道の夜のような夜』の「のような」が示すように、物語の中身はオリジナルの作品と結構違っている。


お祭りや、活版印刷、牛乳屋、銀河鉄道に二人が乗り合わせるところ、化石の発掘を見るところなど、『銀河鉄道の夜』の要素を抑えてはいる。けれど、彼らはお笑いをやっているから、全体的に笑える、おもしろい構成になっている。また、彼らは独自の「言葉遊び」のスタイルを、「新聞の印刷の文字の間違い」や、「しりとり」で取り入れながら、全体を構成している。

そうなのだけれど、これを見た後に、『銀河鉄道の夜』の読後感というか、自分が『銀河鉄道の夜』に抱いているイメージのようなものや、感情をこの作品は思い起こさせてくれると思う。

オリジナルの『銀河鉄道の夜』は、根底にあるテーマが「自己犠牲」にまつわることや、「本当の幸いとは何か」という問いかけが物語の中にあるのだが、この作品はそのテーマ性を重要視してはいないと思う。

ジョバンニとカンパネルラが、「銀河鉄道」という非常に曖昧な存在に乗り合わせるという、その場自体が本当のことなのか、夢か現か分からないようなあの空気や、(二人は最後、オリジナルでも離れ離れになってしまうのだが)その儚さのようなものを、この短い時間の中で「抽出」しているというか、浮かび上がらせていると思う。

では、なぜ彼らはそういう舞台の作り方ができるのか。


ラーメンズは、「爆笑だけがおもしろいわけじゃない」というテーマを元に、「お笑いと演劇の中間」という立ち位置をとって、舞台を作り上げている。

実際に、普段見るようなお笑いやコントではないし、かといって、純粋な演劇であるとも言えないと思う。
例えば、「お笑い」を見る時は、主に笑うことを目的として見ると思うし、「演劇」を見る時は、主に役者の演技や、演出、物語に注目するだろう。

けれど、ラーメンズが自分達の舞台を「お笑いと演劇の中間である」とする時に、私達は途端に、自分が今何を見ているのか、はっきりとは分からなくなるのではないか。

具体的に言うと、お笑いを見ている感覚で見ると、それが少し延長されて演劇的なものに触れることができるし、同様に演劇を見ている感覚でいると、お笑い的なものに引き戻される感覚がある。

私はその自分の鑑賞態度が揺れ動く感覚が面白いと思っている。「真面目と不真面目の中間」にいることや、「現実と非現実の間で揺れる」という舞台装置によって、『銀河鉄道の夜』が持つ不思議で曖昧な場の空気が作り出されたのではないかと考えている。それは、物語の核の部分を浮かび上がらせたといっても過言ではないと思う。


2018/5/16
ショートショート」第一回より抜粋
「ショートショート」第一回開催のお知らせ – Kuro-Lab.