死ぬことと、言葉を持つこと

今も通っているのだが、以前住んでいた町でも、私は心療内科に通っていた。

心療内科では、その時の生活上での困りごとや、不安になっていることを主に話すのだが、例えば「眠れない」とか、「仕事に行けない」、「深夜に不安感が出て困る」とか、そんなことだ。そんなに大した話を毎回しているわけではない。

 

けれど、当時の私には、いつもより少し切迫した悩み事があった。それは、「死に対する恐怖心」が強くなっていることだった。

その日は心療内科の予約を入れていて、確かそれに向かうバスの中だったと思うけれど、突然「今、もしかしたら次の瞬間、死ぬかもしれない。怖い。怖い......!」というような気持ちになり、胸が張り裂けそうに苦しくなった。

なぜ、突然そんな気持ちになるのか分からない。けれどその時だけじゃなく、当時は「死」への漠然とした恐怖が、常に頭の上に漂っているような状態だった。

 

そんな状況なので、心療内科の診察の時に、普段通りの話をした後、主治医の先生に思い切って尋ねてみることにした。

「あのー。最近、死ぬことへの恐怖心がすごいんです。突然、死んでしまうかもしれない......と考えてしまうんです。どうしてなんでしょうか。以前、高校の同級生が急に亡くなったことがあるんですが、関係あるんでしょうか」

実際は、もっとしどろもどろな感じで漠然とした質問だったように思う。

けれど、主治医であるおじいちゃん先生は私の目を見て、

「死について考えるのは、人間にとって命題のようなものなんです。それについて考えを巡らせることは、とても大事なことです。そりゃあ、生きていて、そんなこと少しも考えずに生きることもできますが、それでは成長できません。死への恐怖を乗り越えるために、それに向き合うことが絶対に必要なんです」

と、とても真剣に答えてくれた。私は少し難しい話に頭をひねりつつも、先生がそう答えてくれたことがとても嬉しかった。

 

帰り際、診察室のドアを閉める時、先生の「ふー」という長いため息が聞こえてきた。私よりもずっと高齢の先生に、そんな話をしてしまってよかったのだろうか......と少し考えた。

 

もう夕焼け空になっていた帰り道、私の心は少し軽くなっていた。それから、それほど切迫した恐怖心が出てくることはなくなったように思う。

 

その4ヶ月後に父が急死して、「死ぬこと」はどこか遠くの漠然とした出来事ではなく、現実のものとなって、否応なく私の中に受け入れることとなった。今では、自分や周りの人に残された時間のことばかりを考える。生きている間に何ができるのか。何もできないのではないか......とそればかりを考える。主治医の先生も、これまでに何度も周りの人の死を経験して、「考えて、乗り越えることが必要」だと考えるに至ったのかもしれない。

 

私に起こった変化といえば、これまでより死生観に関する本を手に取る機会が多くなった。例えば、石牟礼道子伊藤比呂美の対談集「死を想う」はとてもよかった。そして、死生観について話は尽きないけれど、答えがすっとまとまって出てくることはないようにも感じた。私も、こんな風に自分に起こったことなどを書き散らしながら、死ぬことや生きることを考えていきたいと思う。いつか、自分の言葉になったらいいなと願いながら。